節足雑踏イケタライク

日々思った事や、書籍・映画・その他の感想なんかを呟きます。あまりマジメではございません。

ヤバい奴はどこにでも居るし、エクスデスも居る「田舎のサイケ野郎」

【あらすじ】田舎で一人暮らしをしている主人公。サイケ野郎に喧嘩を売られたり、住職さんと話したり、綱渡りの少女に綱渡りを見せてもらったりする。

 

 

一年前は、腐った大木が斜面から落ちてきて、隣の家は半壊してしまった。当時、そこに住んでいたミヨタさんは、「寝てたら、爆撃されたような大きな音がして、目を開けると外だった」と話していた。

文學界 二〇二二年三月 P146)

 

木、瞬間的に生えてきたのか……?竹とかなら一晩で家に大ダメージを与えることもあり得るだろうか。でも細いからな。半壊までいくか?

 

ところで忍者が竹を飛び越してジャンプ力を鍛えていたっていうのは、あれはどうも嘘っぽいです。まぁ……どう考えても調節とか不便だしな……。実際には穴を掘って、そこからジャンプで出る訓練をしていたのではないかとかなんとか何かで読みました。まぁ竹を飛び越える訓練は、どう考えても無理がある……けれども、フィクション的には何というか、画になるので、今後も忍者は竹を飛び超えるモノ、というミームは生き続けるでしょう。

 

本当にその修行を真に受けてしまったアメリカ人忍者、シャドーファルコン=サンの話は、また今度にしましょう。ブラクラの小説版(1巻)に出てくる忍者です。怒るからピザ好きなカメの話はするなよ。ちょっとネタバレだけど実は2巻にもでるよ

 

「どうしましたか?」
「象が」
「象?」
「バンダラさんのカレーのニオイを嗅いだら、象が川で水浴びをはじめたんです」
「そうすか」
「その姿を見てたら涙が出てきました」
川を見ると象はいなくなっていたが、バンダラさんは、ゆっくり目を細めて微笑んだ。
スリランカには、たくさん象がいますからね、わたしの使っているスパイスも象が町まで運んだものかもしれません。だから、わたしのカレーのニオイを嗅げば象が出てくることだってあります」

文學界 二〇二二年三月 P146-147)

 

バンダラさんの対応、大人ですね。街中にあるインド料理屋さんは実際はほとんどスリランカの方の人だとかなんとか。「そうすか」っていうのは、フランクにしゃべっているだけか、脱字か、判断に困るところだな。まぁ、フランクだろう。

 

99のブループリントの内戦パートとかもそうだったけれども、登場人物が突然幻覚を見て、その幻覚がストーリー上においては特に意味をなさず(読み解いていけば何かしらのメタファーだったりはするかもしれないけれども)敢えて言えば一発ネタみたいな感覚の「ただの幻覚」で終わるの、アリなんですね。そうなんだ。そうですか。

 

この後も花を食ってたらおじいさんに怒られたり、パンを口の中で暴れさせたりします。めちゃくちゃな野郎だぜ。

 

向こうからサイケ野郎が歩いてくるのが見えた。緑色のジャージズボンに雪駄を履き、ヨレヨレの黄色い長袖Tシャツに、ワッペンがいろいろ貼りついている茶色いドテラを羽織っている。年齢は五十歳くらいで、丸い形の黒いサングラスをかけていて、茶色い山高帽子をかぶっている。

文學界 二〇二二年三月 P150)

 

そしてサイケ野郎の登場だ。タイトルにもなっている、重要人物だ。タイトルが重要な要素だとは限りませんけれども。99のブループリントも、ブループリントは1枚も出てこなかった。ブループリントって何か知らんけど。

 

サイケ野郎は突然ギターを振りあげ、佐々木さんに襲いかかった。だが佐々木さんは、パンを焼くため、毎日、薪を切ったり運んだりしているので、丸太のような腕をしている。その腕でサイケ野郎がふりかざしたギターを受けとめると、強烈なパンチを繰り出し、顔面にヒットさせた。吹っ飛んだサイケ野郎は地面に倒れ、伸びてしまった。トレードマークの丸いサングラスは外れ、あらわになった目はとても小さく、罠にかかった小動物のようだった。

文學界 二〇二二年三月 P151)

 

その流れで負ける奴があるか。

 

「どうしようもねえよな、おめえもサイケを気取りたいところかもしれねえけど、お前は、まったくサイケじゃねえからな」
「サイケ気取ってないです」
「いや違うね。気取ろうとしてんね。でも、お前は、どうにもこうにもサイケにおよばねえから、そこんとこ肝に銘じとけ、なぜなら、お前には思想がないからだ。あえていうなら、お前は芋だ。芋を食って屁をこいて寝てるだけだ」

文學界 二〇二二年三月 P152)

 

主人公はサイコ気取ってはいないだろう。100%天然モノだからな。

 

サイケとは何か。サイケデリックが由来。意識の拡張が主目的。……変なモノを見るには見るけれども、それを無理に理解したり、解釈したりしない主人公は、たしかにサイケ野郎からみれば半端モノなのだろうよ。

 

主人公の回想。思ったよりも変なモノを見ているな。詳細は省くが、最終的には全裸で木登りをする。で、そんな感じで色々あって、色々も色々ヤバいんだけど、田舎で暮らすようになるわけです。とりあえずはうまく回っているようですよ。現状。

 

……ハーブか何かやっておられる?と言いたくなるような幻覚の描写だ。やっておられないから問題なのだなぁ。

 

もう我慢できなくなってきた。唇の間を行き来させていたすあまをつまんで取り出し、住職がいないのをいいことに、畳の上にすあまを置き、横になって頭を乗せてみた。
わたしの頭はすあまに乗っている。柔らかいすあまで覆われ、沈み込んでいく。艶めかしいすあまは、少しひんやりしている。意識はすでに意味を無くしていた。

文學界 二〇二二年三月 P159)

 

すあまを枕にするな。

 

「申し訳ないです。すあまは睡眠作用でもあるのでしょうかね」
「どうなんでしょう。しかし本堂で寝るのは気持ち良いですから、わたしも、たまに、お経を唱えながら、居眠りをしてしまうことがあります」
「そうなんですか」

文學界 二〇二二年三月 P160)

 

受け入れるな。

 

山門を抜け、参道の階段を降りていると、後頭部のあたりがなんだか重たかった。手を伸ばすと、すあまが髪の毛にヘばりついていた。
すあまは潰れていた。固くもなっていて、唇に挟んでも先ほどの艶めかしさを味わうことは、もうできなかった。仕方がないので口の中に入れ、ゆっくりと時間をかけて噛んだ。素っ気ない甘さに気持ちが落ち着いてくる。

文學界 二〇二二年三月 P160)

 

喰うな。

 

この辺りは実に綺麗な三段落ちで、なんというかテンポが良い。コントというか、真顔ボケとして非常に良く出来ている。

 

受け入れてた住職さんも髪にくっついてることを教えてくれりゃいいのにね。髪にくっついていることまで含めて受け入れていたのか。全て世は無常なり。髪はいずれ抜け、すあまもいずれは土に帰る。ならば髪にすあまがくっついているとしてそれが何になるだろうか。どうせすべては無に帰るのだ。ラスボスにいそうな思想ですね。仏教、そんなエクスデスみたいな思想だったっけ。

 

単に畳がべっちゃべちゃになってたのでちょっとイラついてたのかもしれない。片付けは誰がやったんだろうか。

 

すあま、昔食いましたね。「味がねえ」と思ったのは覚えている。だから自分では買わない。思い返してみればほのかな甘さがなかなか素朴で良い感じだったかもしれない。自分では買わない。あんころ餅とか買う。和菓子は好き。素朴さが欲しい時は豆かんとか買う。すあまは買わない。

 

「なに言ってんだよ、透明の方が、常に見られているわけだから、気持ちがシャキッとして、美味いうどんになってやろう、コシを効かせてやろうってなるだろ」
「ちょっと待って、いまコシっていったね」
「ああ」
「うどんのコシってものにも、ぼくは疑問をもっているんだ。そもそも、うどんにコシって必要?」
「あたりまえだろ、ポキポキしてるくらいのがいい」
「でも、それってうどんなの?」
「は?」
「うどんは、柔らかいからうどんなんだ。クタクタの方がいいんだ。子供や歯の無い老人も安心して食べられるからうどんなんだ」

文學界 二〇二二年三月 P162)

 

もはやうどんが話し出すくらいではどうにも思わん。存分に話せ。

 

そういえばこのあいだ、伊勢うどんというのを初めて食べたんですね。コシが無くてふわふわというか、モチモチというか、知らずに食べたら「茹ですぎじゃね?」みたいなリアクションになる、という前評判を聞いていて、どんなもんかな、と割と楽しみにしていたんですが。

 

……普通にコシがあった……。いや。もちろん丸亀とかと比べたら柔らかめではあったけれども……。

 

これに関して俺は3つの仮説を立てていて、①逆ローカル化、②注文ミス、③コシという概念の認識ミス、この3本になります。コレに関してはまた今度書く。

 

趣味嗜好は十人十色である。だが、わたしに老女を抱くような趣味はない。そもそもエロチックな気持ちとはいったいなんなのだろう。わたしは童貞である。

文學界 二〇二二年三月 P165)

 

……あんた男だったのか。……なんで女だと思ってたんだ俺。まぁ男でも女でもあんまりそこはもはやそんなに関係ないかな、という気もしますね。しいて言えばアレか。サイケ野郎と対比させ過ぎてしまっていたのか。性別も含めて何もかも逆、そう言うふうに考えてしまっていた。

 

まぁ冷静に考えれば、女性だったら全裸で木登りの下りが画的にマズくなるからな。男なら良いのか。誰もそんな事言っちゃあいない。

 

縁側に座った彼女は、まったく化粧はしていないが、黒目がちの大きな目をしていた。色白で鼻はスジの通った良い形をしていて、短い黒髪だった。可愛い顔をしていたが、大きな目は、どこかどんよりしていて、すれっからしが災いし、アイドルグループを辞めさせられたような雰囲気がある。

文學界 二〇二二年三月 P166)

 

ここまでは「男でも女でもそんなことは大した問題ではない」という感じだったのですが、しかし彼が男だとわかってから見ると、綱渡りの少女の登場シーンなんかはまさにラノベ的な意味でのヒロイン登場!という趣がある。

 

趣があるが、しかしラノベのヒロインが登場したところで、この主人公に全くラノベ主人公感がないので、ヒロインだけ出てきて宙ぶらりん、となってしまった感もある。これでは綱渡りではなく空中ブランコ。この例えは蛇足。

 

…‥一見すればかわいらしいけれど、よくよく見ると目がどこかどんよりしている少女、か……。……癖(ヘキ)っ……!脳内イメージは忍野扇(物語シリーズ)。綱渡りできそうかできなさそうかで言えばだいぶできそう。そもそも生き方というか、在り方がだいぶ綱渡り気味だったような気もするし。

 

「妙なモノを見る」、「妙な行動を取る」と、特徴だけを見ればラノベ主人公感にはむしろあふれていてもよさそうなのに、俺の個人の感覚としては全くそれを捉えることができない。なぜか。この辺りは考察してみると面白いかもしれない。年齢。それはたぶん『答え』だな。

 

……いや、感じていた「ラノベ主人公感」が年齢が明かされた途端に霧散した……という感じでは無いから、違うのか?

 

「とにかく意識の拡大拡張ですよ。他人のことを気にしている暇があったら、個々のイメージを広げようぜ。おれには、いまこの焚き火の炎の向こうに不動明王が見えています。その不動明王が言ってます。ラブアンドピースは死にました。これからは、ファイヤーアンドサイケデリシャスアンド寿司なんです。そんでもって、寿司は寿司でも鉄火巻きがベストなんですって、なぜならマグロの赤身が渦を巻いて、そこから空に向かって光が放たれ、エクスタシーを感じちゃった空から雨が降り、虹がかかって、わたしたちは、その虹の上から小便をするんですよ」

文學界 二〇二二年三月 P168-169)

 

サイケ野郎の長台詞。もうちょっと続くんじゃ。ご高説を賜っているところ申し訳ないが、やはりサイケ野郎にはどこか「作り物」感を感じてしまう。なぜだろうか。

 

……目的意識か?

 

サイケ野郎も主人公も、「妙なモノを見る」、「妙な行動を取る」と、出力されるモノは同じなのだけれども、サイケ野郎の場合はそこに「己の意識を拡張する」という目的がある。敢えてわかりやすさを優先した言い方をするのであれば、「『変なことがしたい』と思っている人が変な事をしている」わけで、つまりやりたい事をやっているわけだ。目的の内容こそ少し妙だが、理解はできる。論理がある。

 

主人公は違う。「普通に生活しているとなんか変な事が起きる」わけで、ここに論理の繋がりはない。なので主人公の方が俺には「変な奴」に見えるのだろうか。こう書くと一方的に「変」の被害者になっているわけで、「変な奴」と断ずるのもどうにも気がひけるが、まぁ、イメージの問題。変なことは悪ではない。古きことは恥ではない。銃神兵ディオライオス。

 

「普通に生活しているとなんか変な事が起きる」という文章、ここだけに着目すればやはり主人公にはラノベ主人公感が多少はあっても良さそうだ。しかし、実際には感じない。何故か、その答えが今少し思い当たった。

 

先程はサイケ野郎との対比のためにああ書いたけれども、恐らく言うほど「普通」に固執もしていないのだ。「妙なモノを見る」、「妙な行動を取る」、その際の反応は実に自然で、「俺はこんなのとは無関係に普通に生きたいのだ」という感じがしない。ただ受け入れている。妙なモノを見たり、妙な行動を取ったりするからなんだというのか。どうせすべては無に帰るのだ。つまりは、ラノベ主人公ではなく、エクスデスですね。

 

まあその辺受け入れているタイプのラノベ主人公もいるだろうから、結局俺が今までどんなラノベを読んできたかというところにかかってくるのでしょうが。

 

その日は、男の画家が、ピンク・フロイドの原子心母というアルバムを紹介していた。

文學界 二〇二二年三月 P172)

 

原子心母!知っているぞ。吉良吉廣のスタンド、アトム・ハート・ファーザーの元ネタだ。吉廣は父親なので、「原子心母」の「母」が「父」になっているのだな。こういう改変が入るのは、ジョジョではなかなか珍しい。

 

大抵の「変な名前」はそのまま通すからな……。なぁ、ドゥードゥードゥー・デ・ダーダーダー。なぁっつっても、アイツは別に返事とか出来ませんけど。昆虫だし。あのラスボスが同属の昆虫に対してはやたらフランクというか、親しげにしてるの、ぞこそこ好き。オブラディ・オブラダ!

 

生前は写真に潜り込めるだけの能力だった、とかなんとか。アランズ・サイケデリック・ブレックファーストも、面白そうな曲ですね。それにしても洋楽の名前をカタカナで書くと、ううむ、スタンドですわね。

 

サイケやろーっ!何があったかは読んでください。

 

で、色々あって、主人公は修行に行く、と。……成長譚ではあるのだろうな。

 

読み終わりました。俺は俺にとっての面白さしか重視しないぞ、というのを明言したうえで、今回の文學界3月号の中で一番好きでしたね。

 

今までメインで読んできたエンタメ系の作品には、色々な「ヤバい奴」が登場したが、今回純文学作品の「ヤバい奴」を数人摂取して、前々から思っていたほど彼らの「ヤバさ」に違いがなかった事は単純に驚いた。どちらも強烈な個性を有している。キャラとしては好きだけど、絶対近くに居てほしく無い。遠目に見ていたい。

 

今回の彼らは持っていなかったが、この調子だと「異能持ち」のキャラクターや、あるいはもっと露骨に作品ジャンル自体が「能力バトル」の純文学作品もありそうな気がしてきて、なんというか期待が持てる。

 

ヤバい奴らのヤバさで読者を楽しませよう、とするのがエンタメ系の「ヤバい奴を出す理由」であるならば、純文学はどのようになるのか。「ヤバい奴らの目を通して世界を見てみよう」だろうか。……割と私エンタメ系もそのノリで読んでるからなぁ。やはり違いはよく解らない。そこに差を見出す事は今後読んでいけば出来るだろうか。

 

その辺はよくわかりませんが、単純にキャラがどれも個性的で面白かった。サイケ野郎を終始作り物だとは言っていたけれども、いや、気合いは伝わってきたよ。その調子で作り続ければ、いずれは本物に限りなく近い感じになれただろう。貝木理論によれば偽物の方が本物だ。まぁ、ああなってしまったんですが。残念。悪い奴じゃなかったとは思う。

 

あ。迷惑な奴ではあった。キャラとしては好きだけど、絶対近くに居てほしく無い。遠目に見ていたい。