節足雑踏イケタライク

日々思った事や、書籍・映画・その他の感想なんかを呟きます。あまりマジメではございません。

がぶ飲みメロンソーダと小学生マナー

その日、俺は電車で、1Lのお茶、ペットボトルを持って移動していた。お茶を買うのはいつもの事だ。最近では同じ値段で炭酸ジュースが売っていても、お茶を手に取ることが多くなった。甘味料が舌に残る。シュワシュワ感が時として不快である。これが成長か。敢えて悪く言えば老いか。嫌だなぁ。俺もタピオカミルクティーとか飲もうかなぁ。若干どころでなく遅い気もするなぁ。

 

今回の本題は1Lという容量の方だ。普段は500ml程のを買っているのだが、なぜ1Lを買ったのか。500mlだと途中で飲み干して、結果2つ買ってしまうのだが、たまたま目についた1Lのお茶が、500ml×2より安かったからだ。だから俺は1Lのお茶を買った。結果として退勤時、お茶は、少し余った。全体の1/4ほど余った。1000×(1/4)として、250mlだ。

 

まあ帰りまでの道中に飲めば良いかと思っていたのだが、移動中の給水というのは案外タイミングが難しい。周囲の状況にも左右され、気がつけば目的地であるファミレスはすぐ近くだった。まだ250ml残っている。

 

ファミレスにこれをもっていくか。しかし「飲食物の持ち込み」はマナー的にNGだろう。店内で飲まなければ良い話かもしれないが、李下に冠を正さずという言葉もある。鞄に詰め込むにも1Lのペットボトルはデカく、ぶ厚い。

 

飲むか。

 

悩みながらファミレスの前まで来て、そう考えた。空にしてから入れば疑われることも無いだろう。俺はペットボトルを咥え、上向きにして残った250mlを流し込んだ。途中で息継ぎもせずに。

 

結論から言うと、飲み切ることは出来た。途中で咽せるような事も無かった。しかし、飲み終わったあと、身体から確かにシグナルが出ていたのが解った。

 

「もうするなよ」

 

それは確かに警告だった。250mlだから耐えられた。もう少し増えて300ml、それをがぶ飲みしていたら溺れていた。脳が冷静な思考の末に下した結論であった。

 

「小さな缶一本がお前の嚥下能力に許された、ガブ飲みの限界だ」

 

脳の結論を、食事中ずっと考えていた。反論は浮かばなかった。自分自身の中での実感として、納得のいく答えではあった。安全策を取るべきである。このご時世、外で咽せる危険性は避けるべきだ。このご時世で無くとも、「良い大人」なのだから。なので、以降は大人しくするべきだろう。

 

そんな風に考えていた俺の脳内に、フッとアイツのシルエットが浮かび上がった。彼の名は『がぶ飲みメロンソーダ』。この状況で最も会いたくない男である。

 

 

「衰えたな」

 

重苦しい重圧を感じさせる言葉だった。

 

奴の容量をチラと見る。500ml。これのがぶ飲みは正気ではない。おまけに炭酸だ。甘味料だ。そう思うと同時に、奴に鼻で笑われてしまった。

 

「正気ではない?その狂気をお前は塾帰りに毎回していたのだがな」

 

昔の話だ。確かにそんな時期もあったけれど、毎回では無かった。それは誇張した表現だ。しかしやっていたのは事実である。俺はかつてがぶ飲みメロンソーダを本当にがぶ飲みしていた。友人もしていた。そうするのがマナーだと、小学生の間ではされていた。

 

小学生とマナーほど食い合わせの悪いものは無い。テレワークやZOOM会議においても、「根拠の無いマナー」を押し通す「偽マナー講師」が問題になっているようだが、そんな連中でも手を出さないのが「小学生マナー」である。

 

「がぶ飲みメロンソーダは『がぶ飲み』するのがマナーです!商品名に『がぶ飲み』とあるという事は、つまりそれを前提にした商品だという事。途中で息継ぎなど挟むのは、メーカー様にも申し訳無いですよね?」

 

このマナー講師は「午後の紅茶は午後にしか飲む事が許されない」と言うし(午後の紅茶だから)、「暴君ハバネロを食べる際には下手に出て触れる、食べる事に許可を得なければならない」と言う(相手は暴君だから)。単なるアホである。こんな事で人間の何かが測れるか。

 

「お前はコイツの同類なのか?」

 

脳内のガブ飲みメロンソーダに問い掛ければ、奴は消えていた。今後がぶ飲みメロンソーダを飲む機会があれば、途中休憩を挟みつつちびちびと飲もう。

 

そんな事を考えながらファミレスで頼んだものを食べ終わった。とある初夏の事だった。

 

がぶ飲みってブランド名に当たるんだってさ。出来る人はがぶ飲みしましょうね。俺は控えます。かぷ飲みくらいにしよう。